オードリーの小部屋(5)

1964年「マイ フェア レディ」(My fair lady)に出演。この作品はアカデミー作品賞など8部門を受賞します。主演男優賞にレックスハリソン。しかし、オードリーはノミネートすらされませんでした。ご存知の通りこの作品はブロードウェイミュージカルの映画化です。舞台では、ジュリーアンドリュースがイライザを演じて大好評を得ていました。映画でも当然、ジュリーがイライザを演じるものと思われていました。しかし彼女は映画界ではまだ全く無名な存在でした。そんな経緯もあり、イライザ役はオードリーの物となったのです。
ハリウッドの撮影所にはメルも同行していましたが、夫婦の絆はもう修復不可能な所まできていました。楽屋で言い争いをしていた事もあったということです。そんな彼女に、追い討ちをかけるように、歌の吹き替えがきまりました。「パリの恋人」でミュージカル出演をはたしたオードリーでしたが、いかんせん、音域不足でした。しかし吹き替えの件は口外禁止だったのですが、次第に周知の事実となっていきました。
 この年の主演女優賞は、「メリーポピンズ」のジュリーアンドリュースが受賞しました。イライザ役をオードリーに持っていかれたうっぷんをはらした形となりました。「マイフェアレディ」自体は大成功でしたが、オードリーにとってはつらい結末となってしまいました。
 さて、この作品では、ロンドンの下町言葉、「a cockney accent」が頻繁に使われています。その中でも有名なセンテンスがあるので紹介いたします。スタンリーホロウェー扮する、イライザの父、アルフレッドドゥリトルがヒギンス教授の家に押しかけていった時の言葉です。「I'm willing to tell you,I'm waiting to tell you,I'm wanting to tell you」というリズム感があり、脚韻をふんだ名文句です。いかにもコックニーらしい表現ですね。

マイフェアレディ
オードリーヘップバーン  レックスハリソン

1966年「おしゃれ泥棒」(How to steal a million)に出演。監督ウィリアムワイラー、衣装ジバンシー、共演にピーターオトゥール。この映画の撮影はパリで行われました。そして、メルとの破局はもう目の前までやってきていました。しかし彼女は息子、ショーンの為、結婚生活を守ろうと考えていたのです。両親の離婚で寂しさを味わっていたからでしょう。週末にはスイスの家に戻り、ショーンと共に時を過ごしました。
撮影の方は順調に進みました。ピーターオトゥールとの掛け合いも絶妙な物でした。特に美術館の狭い、清掃道具入れの中に身を隠した二人。ここからがこの映画のクライマックスです。ヒヤヒヤ、ドキドキ、そしてロマンスあり、オードリーの魅力が一挙に爆発します。見ていて、とても楽しい映画でした。

おしゃれ泥棒
オードリー ヘップバーン  ピーターオトゥール

1967年「いつも二人で」(Two for the road)に出演。監督スタンリードーネン、共演アルバートフィニー。これは彼女の結婚生活を暗示するような作品でした。幸福の後の試練、結婚の困難を描いています。オードリーにはまたロマンスの噂が流れました。お相手はアルバートフィニー。彼はメルとは正反対のユーモアにあふれた男性でした。彼女はもうメルとの絆を取り戻そうとはしませんでした。二人の接点は、もはや息子のショーンだけでした。アルバートフィニーとのロマンスは撮影の間の一時でしたが、彼女の演技をひときわ輝かせました。

いつも二人で

同年、「暗くなるまで待って」(Wait until dark)に出演。監督 テレンスヤング、制作メルファーラー、共演エフレムジンバリストjr、アランアーキン。この作品での彼女の役は盲目の若妻でした。この映画が劇場で上映された時、最後のクライマックスシーンは場内の明かりをすべて消すという、粋な演出をしてくれました。この事は最後の戦いのシーンの緊迫感を大いに盛り上げてくれました。暗闇だけが彼女の武器だったのです。彼女の演技は本当に見事でした。当然のことながらアカデミー主演女優賞にノミネートされました。

暗くなるまで待って

夫婦の間に決定的な事件が起きました。オードリーはメルがプロデュースする映画、「うたかたの恋」に出演するつもりでいました。しかし、メルはヒロインにカトリーヌドヌーブを指名したのです。(当時の彼の浮気相手でした)離婚が決定的なった彼女は1968年の夏、イタリアの精神科医、アンドレアマリオドッティと出会います。当時彼はオードリーよりも10歳近くも若い30歳でした。1968年11月、メルと正式に離婚。翌1969年1月、スイスのモルジュという街で結婚式をあげました。1970年2月、次男ルカ誕生。彼女は子守りの為、映画界から引退する事を決心します。しかし、この幸せも長くは続きませんでした。原因は夫の女性関係でした。彼女は夫の女性関係に心を痛めながらも、子供たちの事を考え、家族の為に尽くしました。ルカの手が離れようになった1976年、ショーンコネリーとの共演で「ロビンとマリアン」に出演、その後、「華麗なる相続人」「ニューヨークの恋人たち」に出演していきますが、もう昔の神通力は失っていました。1981年、ドッティとの離婚は成立していなかったのですが、ロバートウォルターズとスイスのオードリーの家で暮らしはじめました。結婚という形はとらなかったのですが、二人ともオランダ人であり、暖かい絆が生まれました。二人は50キロと離れていない街で育ったのでした。
 1988年、彼女はユニセフの運動に参加、親善大使をつとめます。人を愛する心、「愛は与える物」という信念を貫きました。ソマリアから帰国後も胃の痛みをおしながらヨーロッパを廻り、救済キャンペーンに参加しました。1992年11月、あまりの体調不良に訪れた病院で消化器官の悪性腫瘍を知らされます。とりあえず手術を受けたものの、もう手後れでした。死がそこまで近づいていると悟った彼女はスイスに戻りたいと願いました。1993年1月20日最愛の人、ウォルターズとショーン、ルカに見守れながら、彼女は永遠の眠りにつきました。63年の生涯でした。


参考資料 :オードリーヘップバーンの恋愛講義、シネマアルバムオードリーヘップバーン、
video思い出のオードリーヘップバーン