2016年4月6日
.今年もそろそろ桜の季節、毎年花見に行くのが、さいたま市の見沼代用水。そもそも見沼代用水とは?
八代将軍吉宗のとき、幕府が治水技術者として知られた井沢弥惣兵衛為永に見沼溜井を干拓し、見沼に代わる用水源としての用水路の建設を命じました。為永は享保12年(1727年)八月、用水路工事に着手し、わずか6か月で完成させました。この用水路は行田市の利根川から開さくし、東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)に分岐して、延長60キロメートルに及ぶ関東平野最大の農業用水路を完成させました。この用水路は見沼に代わる用水路という意味で見沼代用水路と呼ばれるようになりました。
見沼代用水
通船堀
そして、見沼通船堀は江戸時代に構築された閘門式運河です。見沼代用水西縁(にしべり)、東縁(ひがしべり)、そして芝川の間に開かれたのが通船堀です。芝川は荒川水系の河川で川口で荒川に注ぎ、江戸へと通じていました。通船堀の開通により、江戸からの船が見沼代用水路近辺の村々へ、そして村々から江戸へと舟運が発達しました。しかし、通船堀と芝川の間の、三メートルの水位差を調整するために、東西とも2か所ずつの閘門が設けられました。この運河は大正末期に使われなくなりましたが、その遺構は国の史跡として指定されました。
通船堀の仕組み
天気も良く、桜も満開。これはもう、行くっきゃないということで、そそくさと武蔵野線に乗って、東浦和駅へ向かいました。駅を降りて駅前通りを横切り、坂を下りていくと、見沼代用水、西縁に着きます。ここは西縁と通船堀の合流地点でもあります。ここには小さな公園のようなものもあり、家族連れがお花見をしていました。ここから通船堀に沿って歩いて行きます。遊歩道も整備され、とても歩きやすい道になっています。木々の木漏れ日を浴びながらの散策はとても気持ちがいいものです。
通船堀 西縁の始点
第1の関の閘門跡
通船堀(西縁 手前)と芝川の合流点
芝川(手前)と通船堀(東縁)の合流点
そしてこの閘門を管理していたのが鈴木家です。享保12年(1727年)鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛に従って見沼干拓事業に参加しました。享保16年見沼通船堀の完成と同時に、鈴木家、高田家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船事業をつかさどり、八丁堤などに通船会所を持っていました。鈴木家は各船にたいする」積み荷や船頭の割り振りを行い、文政年間以降は八丁会所において舟割に当たり、住まいも八丁に移しました。現在残る鈴木家はこの頃の建立となり、貴重な建物です。20数年前までは藁ぶきの屋根になっており、この前を通るたびに立派な建物だな、いつも感心して見ていました。
鈴木家
鈴木家付属建物
ひらたふね
芝川を渡り、通船堀東縁へ渡ります。西縁は約654m、東縁は約390m。結構短いですね。
通船堀 東縁
代用水東縁との合流地点
代用水 東縁