2月20日
朝、7時30分にホテル出発。国道10号線から再び国東半島を目指します。今日はずっと10号線を進み、途中、立石の駅近くを右折。まずは熊野磨崖仏へ。道路は格段によくなっています。胎蔵寺の駐車場に車を止めて胎蔵寺へ。このお寺も無住寺です。一通り境内を散策していよいよ熊野磨崖仏へ。入館料200円なりを払い、進んでいくと鳥居があります。ここからが本格的な上り坂。鬼が一夜で積んだという急な石段を登っていきます。息をきらしながら登っていくと突如開けた空間に巨大な磨崖仏が姿を現します。苦労して登ってきた者だけがこの感激を味わえるのです。絶壁の左側に不動明王、右側に大日如来。しばし見とれてしまいすす。不動明王は高さ約8メートル。不動様は一般的に憤怒の形相をしているのですがここの不動様はちょっとユニークな親しみやすいお顔をしています。。右側に鎮座する大日如来は約6メートル。腹部以下は見られない。当初、薬師如来とされていたのですが、頭上部の梵字(ぼんじ)から大日如来と判断されました。また、ここは10年ごとに行われる峰入りの出発点にもなっています。私が訪れたのは2月20日でしたが、3月30日から峰入りが行われます。磨崖仏を過ぎてもう少し登っていくと熊野権現社があり、神仏習合の名残りを残しています。しばし、感慨にふけり、後ろ髪を惹かれる思いで、磨崖仏を後にしました。
胎蔵寺
熊野磨崖仏入り口
鬼が一晩で積んだという石段
不動明王と大日如来
大日如来

真木大堂。入館料200円なりを払って中へ・・・。鉄筋の宝蔵庫の中には仁聞(にんもん)の遺作と伝えられる九体の仏像が安置されています。本尊の阿弥陀如来像は藤原期の作と言われ、寄木造りの巨像、像高は2.17メートルもあります。その周りに鎮座するのは四天王像。こちらも藤原期の作。四天王は四方を守護する神として考えられ、その形相は邪鬼をもおとなしくさせてしまいます。その隣には不動三尊像・中央に不動明王、右側に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・左側に制咤迦童子(せいたかどうじ)この三尊も藤原期の作と言われています。密教におけるの最高の神、大日如来の化身とも言われ、憤怒相はまさに荒れ狂う情熱です。熊野磨崖仏の不動様とはまったく違う表情ですね。そしてその左側には水牛に乗った大威徳明王(だいいとくみょうおう)が鎮座しています。高さ1.3メートル、この木造としては日本一大きな大威徳明王像は、六面六臂六足、頭に3面をいただいています。この像も藤原期の作と言われ、水牛に乗っているところから農民にも親しまれ、信仰されて来ました。
真木大堂の裏には古代公園があり、多くの石造物が配置されています。苔むした石造物は本当に年代を感じさせます。
真木大堂
阿弥陀如来像と四天王立像
不動三尊像
大威徳明王
古代公園
苔むした阿弥陀如来?

大門坊磨崖仏、元宮磨崖仏を見学して、富貴寺に向かいました。ここでも拝観料200円なりを払い山門くぐり抜けると・・・。目の前に富貴寺大堂が現れます。九州最古の木造建築。寺伝によると養老2年(718年)の作と言われ、本尊、阿弥陀如来とともに国宝に指定されています。この大堂と阿弥陀如来像は1本の榧(かや)の木から造られた言われています。内部は板敷きで、四壁には五十仏が描かれています。色彩はもうかなり薄くなっており、大切に保護されています。創建当事はどんな美しさだったのでしょうね?
大門坊磨崖仏
元宮磨崖仏
富貴寺山門
富貴寺十王石殿
国宝 富貴寺大堂
奥の院への階段
富貴寺 石造物

富貴寺を後に途中、諸田越板碑に立ち寄り、財前家墓地に向かいます。財前家は国東半島に勢力を誇った豪族です。墓地には財前美濃守の墓といわれる国東塔をはじめ、宝篋印塔、板碑、五輪塔が百数十基が立ち並んでいます。以前来た時には鉄条網で囲われ、中に入ることはできませんでしたが今回訪れたときには鉄条網はなく、自由に立ち入ることができるようになっていました。美濃守の墓には天応3年(1321年)の銘があります。これだけの墓を維持できた財前家の繁栄はどれほどのものだったのでしょう?
財前家墓地
財前家墓地
六地蔵

白髭神社。正平6年(1351年)沓掛城主田原直平によりこの地に建立されました。ここでは毎年10月の秋祭りにどぶろく祭が行われます。神前に供えられた濁酒が参拝者に振舞われ、この濁酒をいただくと無病息災だと言われています。この神社には仁王像も奉られています。
白髭神社
社殿
入り口の鳥居

豊後高田で昼食をとり、天念寺に向かいました。本堂にはかつて国宝に指定されていた五体の木造仏も朽ち果てたお姿で安置されています。背後には天念寺耶馬といわれる奇岩が連なり、10箇所ほどの仏があり、峰入り最大の難所、無明橋もあります。今晩、ここでは修正鬼会が行われます。天念寺では鬼会の準備が着々と行われていました。6メートルの大松明、火祭りなので近くの天念寺川から水をくみ上げ本堂に水をかけています。川の中には不動三尊の磨崖仏が鎮座しています。川中不動。川の中にあることから、度々見舞われた水害を除く祈念から建立されたのでしょう。隣には「鬼会の里」という建物ができていました。ここでは映像で鬼会の様子を見ることができます。今晩の鬼会を楽しみに次の目的地、無動寺に向かいました。
天念寺講堂 ここで鬼会が行われる
川中不動
無明橋
鬼会の大松明

小岩屋山無動寺。天念寺から山越えして、無明橋を越えてくることもできますが今回は車です。本堂に入るとテレビカメラを持った撮影の方がいらしていました。「テレビ局の方ですか?」と尋ねると「原風景の残る郷」という番組のスタッフということでした。「もしかして○○さんですか?」と尋ねると、一瞬怪訝な顔され、「そうです」との返答が・・・。メールをいただいた者です、というとやっと笑顔を返していただけました。本尊は薬師如来。そのほかにも不動明王、大日如来が鎮座しています。裏山には十六羅漢がデンと鎮座。その後ろは黒土耶馬と言われる岩場。国東半島は本当に尾根と尾根の間の谷に沿って開けてきているのがはっきりわかります。御住職の中島師はもう80歳を越えておりますがとても元気な様子。しかし今回の鬼会は残念ながら参加はされないとのことでした。
無動寺山門
十六羅漢
大日如来
薬師三尊
鬼会の面

大岩屋応暦寺。無動寺からは車で5分くらいのところにあります。ここの御住職、大嶽順公師は「国東文化と石仏」の著者としても有名です。本尊は千手観音菩薩と記されていますが本堂には不動明王が安置されています。カヤの一本造りで平安期のものと推定されています。そして観音堂の前に鎮座する仁王像はとてもユニークなお姿をされています。背後の山に進むと堂ノ迫磨崖仏があります。六観音、六地蔵が刻まれ、民間信仰の象徴として存在しています。応暦寺からさらに1キロほど奥に進むと有寺集落あり、ここには隠れキリシタンの作と言われている庚申塔があります。調査の結果ここはかつて隠れキリシタンの里であったそうです。応暦寺の檀家であった有寺集落は応暦寺の庇護にあったのか迫害等の記録はないと言うことです。
応暦寺山門
観音堂前の仁王像
応暦寺境内
有寺集落の庚申塔

旧千灯寺跡。ここは六郷満山開祖の仁聞菩薩が最後の修行をされ、入寂の聖地とされています。しかし、キリシタン大名、大友宗麟の焼き討ちにより全くの廃墟となってしまいました。文禄年間に再建されましたが、明治の火災によって再び消失。現在は寺院があったことを示す石垣と磨崖仁王像がポツンと残されているだけです。往時の大寺院として栄華は見る影もありません。しーんとした風景の中に残る仁王像は物悲しささえ漂ってきます。ここから少し登っていくと奥の院が・・・そしてその先には、仁聞菩薩の墓と言われる、国東塔、五輪塔群があります。今回は時間が遅くなってしまったので、今晩の宿泊地である伊美へ向かうことにしました。
千灯寺跡の石垣
仁王像

伊美別宮八幡宮。ここには国東最大の国東塔、正応3年(1290年)の銘があります。そして巨大な陰陽石。これは明治17年の銘があり、国東半島では比較的新しいもです。密かに性病や安産を祈る人たちの参拝が耐えなかったとのことです。
宿泊は学生時代、何度もお世話になった国見ユースホステル。名前はユースでも宿泊者はほとんどが中年以上。すいていたので一人一室とホテル並みでした。夜はいよいよ修正鬼会見学です。
伊美別宮八幡宮
国東塔
陰陽石
エビス様