山崎 富栄
 一部の人から、彼女は太宰を死に導いたように言われ、「太宰は富栄に殺された」という非常識な意見まで述べられている。私は彼女がそのような女性であったとは思えない。あの時代において彼女は愛の先駆者であり、純粋に太宰を愛していたのだ。


1919年、東京に生まれる。あだ名はスタコラさっちゃん。(「ヴィヨンの妻」に出てくる椿屋のさっちゃん。)1937年、錦秋高等実業女学校卒業。父設立の美容学校の後継者を目指す。ロシア語、英語を習得。1944年12月9日、奥名修一と結婚するが夫は同月21日、マニラへ単身赴任、現地召集、そのまま戦死する。1947年3月27日、ミタカ美容院に美容師見習として勤めていた今野貞子の紹介で太宰と知合う。三鷹駅前の露天のウドン屋さんであった。太宰のやさしさ、寂しさにひかれやがて恋に落ちて行く。


 同年5月1日のノートには「好きだ!」と記されている。
 忘れられない5月3日。「死ぬ気で恋愛してみないか」という太宰の言葉に「うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい」と答えている。しかし、この時点では富栄の心はまだ揺れ動いていた。”I love you with all in my heart but I can't do it”
この言葉が示すようにまだためらいがあった。
 5月14日。せつない日。”I hope you for sentimental reason.I hope you to believe me.I give you my heart.I think of you every morning.Dream of you every night.Dearest I'm never lonely.For never your inside.・・・”なんとせつない言葉であろう。しかし富栄の心は確実にためらいが薄れて行った。
 5月19日。「愛して、しまいました。先生を愛してしまいました。どうしたら、よろしいのでございましょうか。お逢いできない日は不幸せでございます。」せつない女心。今の時代と違い、戦後間もなくの頃、これだけの告白をするのも大変な時代であったと思う。
 5月21日「お別れするときには、1度はあげる覚悟をしておりました。・・・至高無二の人から、女としての最高の喜びを与えられた私は幸せです。・・・Going my way」富栄の心にもう迷いはなかったと思われる。
 6月23日「もう決して、別れるなんて言ってくださいますな。瞬間でも別離のことを考えますと、涙が湧いてくるのですもの。」太宰に対する思いは募ってくる。


 11月16日。泣きました。顔がはれるくらい泣きました。わびしすぎました。前日、斜陽の兄君(兄とあるが、斜陽のモデルになった太田静子の弟、太田武)が太宰を訪ねてきている。話し合いの中で静子の子供の名前に修治の治をとって、治子と名付けている。女の嫉妬、不安。
 5月16日。「神様、一体どうしたらよろしいのでしょう。私は太宰治という人を知らなかったんですもの。知っていたのは。津島修治であって、その頃は、ご家族を持っていられることも、なんにも知らなかったんです。愛してしまってから、はじめて奥様や、お子様のおありになることを存じ上げたので、そのときはもう、私は自分の愛情を抑えられなかったのですもの。」女の孤独、不安、一途な愛、献身。
 6月13日。遺書をお書きになりご一緒につれて行っていただく。みなさん さようなら 父上様 母上様・・・・・


遺書
 私ばかり幸せな死に方をしてすみません。奥名と少し長い生活ができて、愛情でもふえてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。山崎の姓に返ってから死にたいと願っていましたが・・・、骨は本当は太宰さんのお隣にでもいれて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。太宰さんと初めてお目もじしたとき他に、二、三人のお友達とご一緒でいらっしゃいましたが、お話を伺っておりますときに私の心にピンピン触れるものがありました。奥名以上の愛情を感じてしまいました。ご家族を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世に行ったら太宰さんのご両親にもご挨拶してきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
 せめてもう1、2年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。ただご両親のお悲しみと今後が気掛かりです。


遺体が発見された時、二人の体は赤いロープでしっかり結ばれていたとのこと。太宰の遺体は立派な棺に移された、千草に運ばれました。しかし、富栄さんの遺体はお昼過ぎまでムシロをかぶせたまま堤の上に置かれたままでした。合掌。


千草
山崎富栄が下宿していた野川家の斜め向かいにある小料理屋。太宰はここの2階6畳一間を仕事場として使用していた。当時、太宰の家はここからすぐ近くにあった。また、太宰の検視はここの土間でおこなわれた。