桜桃忌

2時30分、予定の30分遅れで桜桃忌が始まった。例年のごとくスタートは小野氏の「雀こ」の朗読である。この作品は昭和10年、「作品」7月号に掲載され、戦後、「晩年」に再録される。冒頭、「井伏鱒二へ。津軽の言葉で」と書かれている。全編、津軽弁で書かれているため読んでもほとんど意味がわからない。しかし、小野氏の流れるような津軽弁と余韻を含んだ発音は聞いていて美しいものであった。
続いて野原一夫氏の講演。野原氏は「回想 太宰治」「太宰治 結婚と恋愛」等太宰関連の著書がある。講演の内容は主に「回想 太宰治」に書かれている太宰入水後の様子を熱く語られた。太宰と富栄が入水した玉川上水のこと。今のように水流は少なくなく、特に梅雨時だったこともあり激流であったこと。6月13日に入水したがなかなか遺体が上がらなかったこと。特に玉川上水は人喰川と呼ばれ、入ったら最後もう死体は絶対に上がらないと言われていた。捜索は上流の武蔵境浄水場の水門を加減して行われた。しかし水門の加減は6月19日までと期限付であった。遺体は19日の早朝通行人によって発見された。万助橋の下流の新橋という小さな橋の下流10Mほどの水面に揺れている二人の遺体を発見した。
 野原氏が一番苦労したのは太宰と富栄の遺体をマスコミのカメラから守る事であった。二人の遺体は赤いひもでしっかり結ばれていたという。そして太宰の顔は、生前には決して見せた事のない穏やかな深い眠りに入ったような、そして口元には微笑が浮んでいたと言う。
3番目は宮地佐一郎氏。この方は坂本竜馬関係の著書を多く書かれていらっしゃる方で、今回は宮崎譲詩集をお持ちになり、太宰が序文を書いたことをお話ししてくださった。宮崎氏は無名の作家であったが太宰が序文を書いたため、かなり話題になったとのこと。

最後に壇上の人になったのは長篠康一郎氏であった。長篠氏は山崎富栄さん関係の本を出版されており、初めての桜桃忌にも出席されていた方でもある。その頃のエピソードも交えていろいろとお話をしていただいた。桜桃忌世話人会が解散した事、昭和23年6月16日〜6月19日までは大雨であったこと。当時を知っている方の言葉なのでとても臨場感あった。




最後に自由発言の時間があった。ここではそれぞれの太宰に対する思いを述べていた。かなり遠方から見えている方も多く、発言された方は、静岡、三重、長岡、京都、三宮から見えた方々であった。その他にも、記帳された方には、愛媛、熊本の方の名前も見られた。東北の方の住所は発見できなかったが、多分、金木の方へ行かれたのでしょう。
 締めは住職の「壇一雄レインコート事件」であった。昭和40年代の桜桃忌は雨が多く、壇氏が訪れた時も雨であった。当然、レインコートを着てきたのであるが夜になってお付で来ていた出版社の人から「レインコートを忘れていないか」と再三の電話があったとのこと。非常に横柄で、結局は新宿の飲み屋さんにあったというが判明し、一件落着したのであるが、謝りの電話は無かったとのこと。いろいろエピソードはあるらしいのだが、ネタが無くなるのでこの話の披露でお開きになった。